脳を意識する教育~その2~

<ケース1>
帰国子女の中学生の女の子が、立命館高校に編入したいということで、短期、作文のレッスンに来た。
海外の教育で、おそらくパラグラフライティングのようなものをインプットされていたのだろう。ザクッとしたまとめ(主張)が先に来て、「まず第1に」、そして「第2に」「第3に」と続き、さいごにまとめがくる。
それで、なんとなく形ができているのだが、内容がバラバラしているのだ。
たとえば三つの理由が並列であるべきところが、理由であったり、雑感であったり、事例であったり、とバラバラなのだ。
そんなこと、指摘されたことがなかったのか、私が指摘してもなかなか受け入れようとしない。
ひととおり説明して、「じゃぁ、書き直してごらん」と突き放した。

あ、怒ってる怒ってる・・・
と思ったが、ほっておく。
何か自分で書くまではほおっておかなくちゃ。

そのうち、何か書く。
私がコメントして、書き直し。
何か書く・・・

ということをしばし繰り返し、ようやく筋の通ったものに仕上がった。

その瞬間、「あぁ、これか!」というような脳みその声を聞いたような気がした。

<ケース2>
高校入試の小論文指導で、接続詞や全体の構成にがっつりつっこみを入れて考えさせたら、国語の点数が急上昇した。(塾の先生に「何かした?」と聞かれたらしい)

<ケース3>
読解用の文章を、語と語の連関を確認しながら精読すると、読解能力が上昇し、そのまま高止まりした。

これを「脳が動くようになった」と表現するのが適切かどうかはよくわからないが、読むときに、確かに脳を使うようにはなる。読んでいるときの目の色や、質問した時の答え方が明らかに違ってくる。

<接続詞>に気をつける、とか、<伏線>、<言い換え>などを拾っていく、ということなら、作業系にも分類されるだろうが、実際にはさまざまなタイプの文章があって、そういう作業的な技術だけでは対応しきれない。したがって、語と語の連関を読み解き、筆者の意図を確実につかむためには、そういった作業技術以外の、もっと統合的な要素が必要になる。そのときに、自分の持っている資源のなかから適切なものをぐゎっと集めてくる、集中的な脳の働きが必要になるように思う。(このとき、そこで書かれていることの周辺知、つまり「教養」も必要になる)

<失敗ケース1>
いろいろ事情があるらしいが、甘やかされて、このままではいけないとうすうす感じながらも、そこから動かれない子もいた。やはり高校受験のために作文が必要。
面接も控えているので、自分の言葉をまず持たす必要があった。
自分が話したいことはペラペラ話すが、決して私に心を開いたりしたわけではなく、ただ話したいだけのようだった。
面接で聞かれてもおかしくないような質問を投げかけても、答えない。たとえば、どうしてその学校を志望するのか、という、志望校に関する情報を知らないと答えられない質問だったと思うが、資料を見せて、こういう内容を言ったらどうですか、というようなアドバイスをしても、答えない。答える内容を私が教えてしまうわけにはいかないし、また、それは本人にしかできないことなのだ。30分以上、同じ質問を投げかけ、待ちつづけた。
その日はとうとう答えられず、あと一歩私が引っ張ったところで終わったと思う。
その日、母親からメールが来た。
「わからなくて戸惑っているときは声をかけてやってください」
と。
もし、そこで母親が娘に、「それは自分で考えることよ」とか、「わからなくて困ったときは自分でそのことを先生に伝えてごらん」とか言ってくれれば、まだよかったのに、と思う。
私はこの母親に対して何かアクションを起こすべきか、とも考えたが、そうするだけのエネルギーもモチベーションもなかった。

<失敗ケース2──アスペ系>
中学女の子
植木屋さん

<失敗ケース3>
中1女の子:脳がパニック

カテゴリー: 教育 パーマリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

This site uses Akismet to reduce spam. Learn how your comment data is processed.