『「受験国語」害悪論』水島醉

<読みながらメモ>

ちょっと違和感のある文章ですんなりと理解できない。

まず、「論理」という言葉の使い方が、たぶん私とズレているのだろう。水島は、数学を「論理的」なモデルとして措定している。しかし、私は美学の分野での論述にみられるような、推論に推論を重ねたようなものにも「論理」はあると思っている。したがって、数学のように答えが一つに絞ることができないから国語は論理的でない、と言い切ってしまうことに違和感を感じるのだ。論理は何も、答えを一つに導くための思考ではないはず。

また、必要のない(あるいは的を射ない)例え話が多く、それも本書を読みづらくしている。

「本物の国語力の最も重要なポイントは、論理で表されない「解答者の経験や個人の資質に基づく想像や考えの部分」111

大学入試の国語は、「語彙力、短い時間で読める読字力、常識的な論理力」があれば解けるから、「訓練すればけっこうとけるように」なる。だから、大学入試に限っては「国語は論理で解ける」と言うこともできる。111

「国語に必要なのは、経験です」112

学習方法として、「音読」、次に「暗唱・暗記」を挙げているのは納得できる。さらに「要約」、「書写」。

<コメント>

「国語」という謎めいた教科にオーソドックスに立ち向かっている著者の態度に敬意を表します。謎めいているものを謎めいたまま置いておきながら、実際問題として「国語力」をつけるためには、「音読」に始まる一連の基礎的な作業が役に立つということです。これは私も実際に教える中で実感できることです。(私の教室は作文教室なので、「要約」の練習は気になっているものの今のところ採り入れてません。)

ただ、著者の「国語力」というのもいまいちよくわからず、その力の測定のためには結局のところ、著者の批判する「長文切抜き問題」によって構成された各種模擬テストなどによる偏差値に拠るしかないのかな?というのも、疑問です。疑問というより、残念な感じです。

上にメモしましたが、「国語に必要なのは、経験です」とあります。これは、「文脈を読む能力」と置き換えることができるかもしれません。文脈を読むためには、文化的な環境や理解を共有していることが前提になります。たとえば、「吐いた息が白くなった」と言った場合、そのような寒さを経験したことのない人には意味がわからないかもしれないですよね。ある地域においては、ほとんどすべての人が理解できないかもしれません。

「家族」にまつわる経験・環境も大きいですね。児童養護施設で育った子どもは、果たして家族の感情の機微を描いたような作品を理解できるでしょうか? 理解できたとしても、その理解は、そこそこ平和な「家族」で育った子どもと同じ理解なのでしょうか?

と、こんなことを考えていると、「経験」に基礎を置く「国語」、つまり、文化共有に基づく「国語」の存在意義のようなことを考えてしまいます。

あるテキストに文化的な背景がある、というのは、これはどうしようもないことです。そして、その文化的背景がわからないと、テキストの意味の解読も深みが出てこないかもしれないです。このように、「テキスト─文化的背景」という枠組みのもと、教材化するのは問題ないと思うのですが、その「文化的背景」の部分を、授業を受ける人やテストを受ける人がみなそれを共有していると前提するのはどうなのか、ということです。これはなかなか難しいもんだいです。

著者は、大学入試の国語については次のように述べています。「難関大学の入試国語は、語彙力、短い時間で読める読字力、常識的な論理力、があれば解けます。……そういう意味で、大学入試に限っては「国語は論理で解ける」と言っても、あながち間違いではないかもしれません。しかし……本物の国語力の最も重要なポイントは、論理で表されない「解答者の経験や個人の資質に基づく想像や考えの部分」です」111

その上で、「大学入試のような特殊な国語を除いては、正答は、大人による最大公約数的な答えです。まずは、しっかりと読めること、読めて内容がつかめること。これは回答者の資質ですね。読んで理解する、ここまでは努力で向上することができます。そして、国語に必要なのは、経験です。自分が悲しんだ経験のない人には、人の悲しみは理解できません。さらに、自分自身の資質や経験から想像されること、考えられること、これらを他人に伝えられるように記述すること。これらが国語で点数を取るために必要な力だといえます。」111-112

「正答は、大人による最大公約数的な答え」と言ってしまうと、これはもう、マジョリティの世界観を理解できるかどうか、ということになってしまうわけですよね。「悲しみ」にしても、失恋の悲しみと震災で暮らしを根こそぎにされた人たちの悲しみとを同じ悲しみとすることには無理があるわけです。

そういったことを、自分自身の経験に基づいて、さまざまに解釈する、というのはいいと思います。これは、文学や美学の領域でなされていることではないでしょうか。つまり、解釈はさまざまであり、どうしてそのように解釈したのかを理論だって説明するということ──これはいいと思うのです。間違っても、マジョリティの解釈だけを学習する場にすべきではない、と私は思うわけです。

とすれば、著者が述べているように、「自分自身の資質や経験」を基にした想像力が果たして「点数をとるために必要な力」と言えるのかどうか? 著者の説明によれば、そのような経験がマジョリティと共有されている場合のみ点数に結びつくことになってしまうからです。たとえ現状がそうであれ、それを力強く肯定する著者の主張には違和感を感じます。

まぁ、自分の解釈を理論だって説明できるということは、それを客観視できているということであり、つまりは違う立場もあるということを措定しているわけだから、マジョリティならこう考えるだろうと推論する力も十分ある、したがってテストで点数をとれる、と言うことにはなると思うのですが・・・

まとめましょう。

筆者の言う「ほんとうの国語力」なるものは、マジョリティの経験に裏打ちされたものであり、マイノリティを排除しようとする権力作用を有するものである。だから、私はそこを目指すことはしません。(解釈の多様性をこそ、私はめざしています。)

ただ、子どもたちを目の前にしたもっと実際的な場面において、「音読」から始まる一連の基礎的な作業を重視するということ、これはもっと強調すべきだと改めて思いました。教室を運営している立場からすると、そんな当たり前のことをやらせて、親や生徒は納得するのだろうか?という不安に常につきまとわれてしまうからです。その部分で、私は本書から大きな力をもらいました。

「受験国語」害悪論

「受験国語」害悪論
著者:水島 酔
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カテゴリー: 教室運営, 読書 パーマリンク

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