娘を育てる中で、また教室を運営する中で、子どもの学力を知って驚くことが多い。この子がなんで!? と。
昔と比べるのもなんだけど、それに昔の記憶や世界認識がどうだったのかも今となってはよくわからない部分が大きいのだが、子どもの教育環境は激しく悪化している、というのがやはり実感である。
理由はいろいろ考えられる。
①塾の隆盛──これにもいくつかの下位理由がある。まず、塾で先回りして学習してしまうため、学校の授業が退屈で、授業崩壊現象が起こる、というもの。(塾で学習して授業を聞かない子どもは、しかしあまり伸びない可能性が大きい、ということも言えるだろう。塾の内容、学校の授業内容にもよりけりだが、基本的に塾は問題を解くためのパターン学習、学校はやはり考えさせようとする授業が中心だと推測されるからだ。)また、( )内で述べたことと関連するが、塾ではあくまで試験問題に答えるためのパターン学習が中心であるということ。試験に出る知識を浅いまま詰め込み、解法のパターンを頭に叩き込んでいくということ。当然、<考える力>は著しく低下する。
②教員の教育能力低下──まず、教育能力そのものが低下したと仮定することができる。しかし、これについては、私が子どものころと娘の時代とを比較しても、感覚的にさえどうだとは判断しがたい。また、客観的に能力を測定する指標も思いつかない。次に、教員の労働環境の問題で、労働環境が悪化したために教育能力が低下しているという仮定もできるだろう。これも判断するだけの情報がないのだが、昔の先生は、子どもたちに毎日日記を書かせて、それを毎日読んでコメントを返す時間をどのように捻出していたのだろう、とときどき思う。
③子どもをとりまく環境の変化──ゲーム等の、あらかじめ人間が設定したパターン内での遊びが増えたこと。一方で、自然の中で試行錯誤するという経験が減ったこと。また、治安が悪くなって、子どもたちだけで冒険したりということがしにくくなったことなど。
などなど、大きなことを考えると・・・作文教えたり、英語を教えたりして、何らかの効果が見られたとして、このような大きな流れの中でそれがなんぼのもんや、という思いがしないでもない。
しかし、子どもたちの感性や考える力と向き合いながら、地域に寄り添っていくための、第一歩にはなると思う。何かを根本から変えなくてはいけない。おせっかいかもしれないが、パターン学習の中に閉じ込められて魂をすり減らしている子どもたちを見ていると、そう思うのだ。