地域:感情の経済学から

“脱地域”をひとまず意識するにあたって、これまでごまかし押さえつけてきた自分の感覚や感情をもういちど掘り起こしてみる。

まったくの“脱地域”というわけではもちろんなくて、地域のある部分とは少し疎遠になって、新たな境地を開いていきたいということだ。

前回書いたことを、感情の経済学という視点から少し書き足してみたい。

もちろん、私自身のコミュニケーション能力に非があるとか、結局私がみんなを見下していて、そのことを隠しきれずに不快に感じた人がいるのではないか、などという可能性もある。けど、振り返ってみても、自分がそれほどひどいコミュニケーション能力の持ち主だとも、周囲の人が不快に感じるほど傲慢だったとも決して思えないのだ。

私には、彼らができないことができる。しかも、それらはほんとうにささいなことで、自慢するにも値しないようなことである。

しかし、私が彼らにその能力をシェアすることで、彼らは私に「借り」ができたように感じていたかもしれない。そう思う必要はない、と、彼らは自分に言い聞かせていて、それに成功もしていたかもしれないが、どうしても澱のように沈殿していったものがあったかもしれない。

具体的に書くのも憚られるようなささいなことだが、それはパソコンの簡単な操作に関することだったり、ワードを使ってチラシを作ったりアレンジすることだったり、そんなどうでもいい能力のことである。

それが「借り」として澱のように沈殿していったとしたら、それは私の態度にあるというよりはむしろ、私が元大学教員だったりすることにたいする彼らの引け目に原因があるのではないかと思う。

だとすれば、私がしなければいけなかったのは、
「私があなたにこれを教えてあげたけど、(?)。私の方こそここで働かせていただいて、いろいろ支えていただいて、感謝しています」
というメッセージをもっともっと伝えないといけなかったなかな、ということ。(?)の部分も、何か必要な気がするのだが、そこにどのような要素を入れれば彼らが満足するのかは私の想像力ではわからない。

そして、その気持ちを表現するために、人一倍積極的に雑用を引き受けたり、ボランティアでいろんな活動に参加したりしないといけなかったのかな、ということ。

さびしがり屋の誉めてほしい人たち──と彼らのことを括ることもできるかもしれない。

そして、そんなことを言ったりしたり、できるだけがんばってきた自分の姿を振り返ることもできる。私はがんばった。でも、もういい。

ある人には確かにとてもお世話になったけど、それはそれとして、前へ進まなくては。

私がお世話になったという人も、私が地域の外へ働きに行くようになったら、地域内の低賃金退屈な仕事に私を引き留めようと一瞬躍起になったが、あきらめた。あきらめたら、さっさと出ていけ、という態度を少し出してきた。

男たちのエゴの世界──地域。

こうして女性も巻き込まれるわけだが、おそらく、男同士ではもっと熾烈な何かがあるのだろうなぁ、と想像する。3年間で、その詳細にたどり着けなかったのは残念ではあるけど。

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