ORDについて

Oxford Reading Discovery

わたしはこのシリーズを、教室のメイン教材にしている。

①読解能力をつける
物事のプロセスが表現されている。
使役形や関係詞などに慣れることができる。
技術や社会に関する語彙を増やすことができる。
あるレベルから一つ上のレベルへと、無理なく進んでいけるのも素晴らしいと思う。

②文章構成能力をつける
台湾で中国語を勉強していたとき、娘が自分で読むために購入した、小学生向けの科学的な読み物を読んだ後、中国語を話すのがとても楽になった。
物事の因果関係やプロセスを説明すること──外国で生活するときに必要な語学力なのだと思う。ちょっとしたことを交渉するのに必要な語学力なのだ。語学教科書はとかく、「何を食べようか?」とか「いっしょに遊びに行きませんか?」とか、そういう会話が中心になる。
自然な会話表現などは身につかないが、文章で自分の頭の中にあるものを伝える能力はつくと思う。そのために、毎回1課分の暗記を、標準で宿題として課すことにしている。(基本文型、語彙の定着のためにも)

③補うべき点
あくまでわたしにとって、なのだが、残念に思う点がある。このシリーズは技術系、自然科学系が中心なのだが、社会科学系、人文科学系の内容ももっと盛り込んでくれてたらいいのに、ということだ。心理学、経済学、社会学、文学など。それらの学問のパースペクティブを、子ども向けにわかりやすく表現してくれていたら、とっても重宝するのに、と思う。(TOEFL対策のためにも)

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作文指導─留学生と日本人生徒

留学生の「記述」指導と、日本人への作文小論文指導とを、同時並行的にやっている。

もともとは、日本人の子どもへの作文小論文指導だけだった、ときもあった。
そのときは、面白いこと、わくわくすることに、もっとみずみずしい感性で自分自身が取り組めたように思う。
今、日本人の子どもへの作文指導で、係り結びの間違えや、段落構成など、そんなことをちまちま指摘している自分を、どうしたものかと眺めているもう一人の自分がいる。

留学生は、まずは正しい日本語を構成することが必要なので、生き生きしているとか、内容があるとか、そういうことは二の次になってしまう。助詞がおかしいよ、こういうときはこんな表現があるよ、などといったように、技術的な指導が中心になってしまう。そして、それでよし、としている。

しかし、日本人は?

もっと自由に自分を表現できるんだよ、していいんだよ、というモチベーションがある。
一方で、係り結びや、指示語、接続詞の意味などにもっとセンシティブになれば、国語の読解力もきっと上がるだろう、などと欲を出し、そういった指導もきちんとしたいとも思う。
バランス、落としどころを見極めるのは、ケースバイケースということもあるので、固定化したくはない。ただ、日本人対象の指導では、「表現したいもの」をしっかり掘り起こすという初心を忘れないようにしよう、と思った。

それは、人と人とのガチンコ対決になるので、なかなか難しい部分ではあるけれど。

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覚えられない子ども

明るくのびやかで、周囲への配慮もきちんとできる中1の女の子。いろんなことを自分の感覚にきちんと落とし込んで理解しようとする「地」のしっかりした子。

しかし、この子もまた学習の問題を抱えている。とにかく覚えることができない。覚える、と考えただけで、ひどい苦痛を感じるようなのだ。

月3回、各1時間の多読のレッスンで、効果をあげるためには、多少なりとも時間内にやったことを記憶とどめて積み重ねていくことが必要になる。そのために、簡単な宿題を出すようにもしている。

ORTシリーズでは、1+~3 のグレードは、基本的な動詞や副詞などを感覚的に理解できるようになっている。現在形、過去形も、感覚的に理解しやすくなっている。

なので、中学生にも、この部分にはじっくりと取り組んでもらい、基本語の概念をしっかり固めた上で、いよいよ「多読」へと進んでいく。つまり、基本語の基礎がしっかりでき、ある程度の語彙も蓄積されれば、グレード4あたりからは細かいことは気にせずにどんどんと読んでいってもらうことができるのだ。

したがって、グレード1+~3では、そういった基本語をしっかりと記憶に引っ掛けていかなければならない。そのために、個人差はあるが、6冊に1冊くらいはその場ですぐに暗記してもらったり、宿題に出して覚えてきてもらったりしている。

でも、この中1の女の子はそれができない。
あまり苦痛を感じさせるのもどうかと思っていたのだが、先日「覚えられない(漢字や社会なども)」という相談を本人から受け、やはり、これは乗り越えていかなければいけないのだと、私も腹をくくった。
たったお54語からなる1冊の絵本。しかも、同じ言い回しが繰り返し使われている。それでもなかなか覚えられない。同じ言い回しが使われているので、登場する順番をまず整理して、「絵」を頭に入れていってやる──といっても、これもどうやらあまり成功していない感じだったが。
で、一度時間を切って、じゃぁ、言ってみようか、と暗記チェック。忘れている部分は助け舟を出しながら、とにかく最後までいく。
戸惑い、不安、混乱──といった表情。
もう一度内容を一文一文いっしょに確認し、じゃぁ、もう一度覚えてみよう、と言って、時間を与える。
眉間のしわが少し伸びて、目に力が宿ってきた。けど、ひどく苦痛──といった表情。
そして暗記チェック。助け舟を出しながら、ではあるが、1度目よりはできたので、手を叩いて褒めてやる。
けど、表情はさえない。
疲れ切った、とか敗北とかいった表情。
「がんばったねぇ。つらい?」
と気持ちを拾ってやると、ついに涙を落してしまった。そして「つらい」って。

もしかしたら、脳に何かしら医学的に明確な障害があるのかもしれない。親が私に伝えていないだけかもしれない。
だとしても、使える部分をしっかりと鍛えていってやるのが私の使命であるし、子どもがこれから少なくとも学校社会をサバイブしていくためには必要なこと。本人も必要と感じているのなら、がんばってくれるでしょう。鍛えれば、きっとある程度までは伸びていくでしょう。私もしっかり伴走しましょう。

彼女、小学校では、成績なそこそこよかったらしいが、中学になって、国語など激落ちしているようなのだ。(これもひとつのパターン)
漢字を覚えるという「作業」、そして、気持ちの読み取りといった、言語というよりは文化依存型の小学校の国語から、やや論理的読解が必要とされ、また抽象度の高い内容が増えてくる中学校の国語への移行は、ある生徒には非常に戸惑いの多いものになるようだ。同じようにまじめにやっていても点数が取れない、点数が取れない理由もわからないし、そんな悪い点数を受け入れることもできない。それで、苦しむ。

さきほど「パターン」という言葉を私は使ったが、これは小学校の学習の欠陥なのだと思う。
言語能力を、小学校できちんと鍛えないと、脳は果てしなく動かなくなってしまうようだ。
言語能力は、国語のためだけではない。それは、あらゆる情報を整理し、理解し、自分をとりまく世界のイメージを構成していく能力なのだ。自分自身の存在、アイデンティティ、自己肯定感を創り出す能力でもある。

漢字を覚えるのが「作業」になってしまうというのが、欠陥の主な理由かもしれない。どうすればいいのかわからないが、とにかく、もっと脳を活性化させる工夫が必要だと切に思う。

短い文章を瞬時に覚えるということ。この子にとってはそれがそういった世界へと進んでいく第一歩になるのだと思う。

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ORTを受け付けない子ども

多読のレッスンで私がメインに使っているものの一つが、ORTシリーズ。
グレード展開も充実しているし、単純なストーリーのなかにもユーモアがあって、大人でもクスリと笑える。たいていの子どもは、絵のあちらこちらに仕掛けてある〝ちょっと笑える部分”まで楽しんでくれる。

それが、小学2年生の女の子、そのシリーズにまったく関心を示さない。「1+」の Present for Dad で、とうとう「難しいから読みたくない」と言い出してしまった。

この子、1年生になったときからうちに来るようになった。それまでは、マブチ系の英語教室に通って、DVDなどを活用しながら楽しく英語を勉強していたようなのだ。

うちでは、その子にはメインでCTPを使っている。音楽に合わせて繰り返しの多いこのシリーズは、それでなかなかむつかしいはずなのだが、たいして意味が分からなくともメロディに合わせて口ずさめるようになり、口ずさめるようになるとそれはそれで楽しいようだ。CDの声音がいろいろ変わったりすると、くすくすと笑ったりしている。

CTPがグレード2の前半まで進んだので、そろそろORTに移行しつつやっていこうとした矢先の、それは「事件」だった。

どうしてこれが難しい?
このユーモアはあなたの琴線に触れない?

それとも・・・

それとも、「文」で英語をとらえることに対する抵抗?

幼児・子ども英語教室に通い続けた子は、英語が変な入り方をしてしまっていて、のちに軌道修正するのが難しくなることがあるようなのだ。

発音よし、すらすら読める、簡単なあいさつや指示にもすぐに反応できる。そういった部分は、私からするとなかなかノウハウがあるなと評価できる。私のあまり得意でない分野だ。
しかし、それで止まってしまうのだ。長い文を読んでも、それが「意味」を持つものとして、つまり、コミュニケーションのツールとして認識されていないようなのだ。文法を文法としてきちんと学ぶ必要もないとは思うのだが、文法の概念がまったく育たないというのも大きな問題だ。

もしかすると、この子は、日本語の「文」もあまり好きでないかもしれない。まじめなので作業はこなすが、なんて表現したらよいのか、つまり、意味のある世界へ自分を投げ込むことができない? そうなると、弊害は今後限りなく大きく膨らんでいくのだが、社会、理科などの暗記ができない、算数が計算以外はできない、国語の読解ができない、はては漢字すらなかなか覚えられない・・・と。

この子、昔話シリーズもまるで受け付けなかった。
音楽がないとダメ?
けど、英語はどこかでちゃんと「文」理解へと進んでいかなくてはならない。英語は音楽ではないのだ。

思い切って文法から入る?
自己紹介とか、簡単な表現を導入しながら、英語はコミュニケーションのツールであるということを教え込んでいく? うまくできるかな?

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拒否られるのは悲しい。
拒否られるとカオスが取り巻く。

春は気持ちが不安定になりがちで、おまけに花粉症で頭がぼうっとする。どうもあまり好きでない。
そう思ってはたと気づく。
台湾にいたとき、いちばん恋しかったのが春だったのではなかったか。
桜、うきうきした気分ーーどうしてそんなこと思ったのか。

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斎藤孝『語彙力こそ…』

薄っぺらだなぁと思いながら読了。
最後に、この本が男性に向けて書かれたものであることが明らかになり、ずっこけた。そして女性にメッセージ。イケメンではなく教養ある男性を選んで下さい、と。
あー、この人の最後の言葉が、彼自身の書に突き刺さる。雑学は必要ない。教養が必要だ!結局、彼の知識は雑学に過ぎない。彼自身がどのように生きたいのか、何を大切にするのか、そこに対する共感は生まれてこない。

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「桃太郎」について

『桃太郎』芥川龍之介(青空文庫)
鬼から見た桃太郎

「桃から生れた桃太郎は鬼ヶ島の征伐を思い立った。思い立った訳はなぜかというと、彼はお爺さんやお婆さんのように山だの畑だのへ仕事に出るのがいやだったせいである。その話を聞いた老人夫婦は内心この腕白ものに愛想をつかしていた時だったから、一刻も早く追い出したさに旗とか太刀とか陣羽織とか、出陣の支度に入用のものは云うなり次第に持たせることにした。」

「鬼ヶ島は絶海の孤島だった。が、世間の思っているように岩山ばかりだった訳ではない。実は椰子の聳えたり、極楽鳥の囀ったりする、美しい天然の楽土だった。こういう楽土に生を受けた鬼は勿論平和を愛していた。いや、鬼というものは元来我々人間よりも享楽的に出来上った種族らしい。」(瘤取り、一寸法師、酒呑童子、茨木童子)
「鬼は熱帯的風景の中に琴を弾いたり踊りを踊ったり、古代の詩人の詩を歌ったり、頗る安穏に暮らしていた。そのまた妻や娘も機を織ったり、酒を醸したり、蘭の花束を拵えたり、我々人間の妻や娘と少しも変らずに暮らしていた。殊にもう髪の白い、牙の抜けた鬼の母はいつも孫の守りをしながら、我々人間の恐ろしさを話して聞かせなどしていたものである。」

「人間というものは角の生えない、生白い顔や手足をした、何ともいわれず気味の悪いものだよ。」

『桃の伝説』折口信夫(青空文庫)

「桃には、魔除け・悪気ばらひの力があるものと信ぜられて来てゐる。わが国古代にも、既に、此桃の神秘な力を利用した話がある。黄泉の国に愛妻を見棄てゝ、遁れ帰られたいざなぎの命は、後から追ひすがる黄泉醜女(ヨモツシコメ)をはらふ為に、桃の実を三つとりちぎつて、待ち受けて、投げつけた。其で、悪霊から脱れる事ができた」

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同窓会

高校を卒業してから初めての同窓会。30年ぶりの面々。

200人以上の人込みの中を泳ぐように歩きながら、目があった人と、顔と名札を互いに素早くチェックして、「あーっ」と声を上げたり、微妙な笑みを浮かべ首をかしげてスルーしたり・・・

そんな恐ろしいことにも30分くらいで慣れて、あと数時間はそれなりに楽しめた。

今まで封印されていた記憶が、どこからか掘り起こされて、少しずつ空気に触れていく。

感情がタイムスリップを微かに起こしながら、アナザーライフの可能性が胸をしくしくとする。

意外だったけど、アナザーライフの可能性に、胸がしくしくとするのだ。
今までそんなこと考えたこともなかった。感じたこともなかった。
ここから、この高校生のこのグループから、さまざまな可能性はそれぞれの道へと分岐していったのだと思った。分岐はすでに始まっていたかもしれないけど、それまでの分岐とその後の分岐とは質や多様性において圧倒的に異なる。
もっと高校時代を積極的に楽しめたなら・・・
もっと自分をコントロールできたなら・・・
人間関係に受け身ではなく、もっと自信をもって何か、別の何かを求めることができたなら・・・
当時はそれなりに必死でどうしようもなかったにせよ、今日はそんな思いにしくしくとやられてしまった。

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英語教育と日本語教育

YMCAで留学生に日本語を教え、自分の教室では日本の子どもたちに英語と日本語を教えている。いや、日本語とはいわず、作文小論文か。言葉を扱うプロであろうと努力している。しかし、やはりいずれの場合も「言葉の向こう」にこだわっている。

とはいえ、「言葉の向こう」にたどり着くためには、絶対的に「言葉を扱う力」が必要だ。これを巷では「技能」と言っている。そして、文科省曰く、「教育なので、技能ではなく、領域という言葉を用いることにした」とか。「技能は塾などで教えてもらうもの」らしい。なんのこっちゃ、だ。言葉はどうであれ、これまで4技能とされてきた「読む・聞く・書く・話す」がないと、その先の教育すらないんでないかい。

とにかく、そんなこんなで二か国語に関わっていて、どうにも不思議な感じがしていたことがある。

英語の教え方と日本語の教え方と、どうしてこんなに違うの?

てこと。

4技能の習得を目標にしている点では、両者共通している。なのに、何かとても違うのだ。私自身、英語はこう学ぶもん、日本語はこう教えるもん、みたいな先入観からなかなか抜けることができなかったのだが、ようやく見えてきた。。

日本での英語教育では、習った単語や文型を使った練習が決定的に不足しているということに、はたと気付いた。

日本語の学習では、「文法」という名のもとに、細かい文型をどんどん導入し、どんどん練習していくのだ。部分作文から自由作文まで。

これを英語に置き換えると、「イディオム」などとして習っているもの、「文法」として習っているものを使って、自分で例文をいくつも書いてみる、という感じになる。そして、このような練習は、日本ではやらない。学校だけでなく、おそらく塾でも。

日本でやる練習は、穴埋め練習、並べ替え練習、そして最後にパターン化された翻訳練習。それだけ。

これじゃぁ、使えるようにならんよな、と改めて思った。

そして、今私が構想しているのは、英語でも、例文を作る練習ができないものか、ということ。
しかしそこで、生徒が作るであろう妙へんちきりんな例文に対応する能力が果たして私にあるだろうか、という難問にはたとぶつかる。そう、ここはネイティブに任せたいところだ。ぜひとも。

しかし、しかし、将来的にそういう構想であったとして、とりあえず、今すぐ始めたいのだ。適当なネイティブも、ネイティブに払うお金も、ネイティブをうまくアレンジする態勢も、何もかもが今はない。つまり、自分でやるしかない。

自分に自信がないのは、日本人に共通したメンタリティ。
厚かましくいくしかないのか、あるいは、ほんとうにまるで歯が立たないのか・・・

やりながら、わからないところは、知り合いのネイティブに尋ねながら──というのが、おそらく現実的なラインだろう、と今は考えている。

多読とこのような文法学習、作文学習と。うまく組み合わせてやっていくための教室アレンジを目下考え中です。

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宗田理『ぼくらの『最強』イレブン』

Nちゃんが読書感想文を書くというので、私も斜め読み。
面白くないなぁ、と思ったけど、この人、結構年取ってるし、たくさん作品書いてるし、びっくり。

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