読みやすい。とくに新たな知見はない。
これから海外へ行こうという若い人へのメッセージが込められている。
『シャルリとは誰か?──人種差別と没落する西欧』エマニュエル・トッド
2015年に起こった<シャルリ現象>をうまく読み解けずにいたところ、本書を見つけて購入。
フランスやヨーロッパについて新しい見方を教えてもらった。刺激的。消化不良。
著者トッドは、反EUの立場。反オランド、反メルケル。EUは新自由主義を推し進め、貧富の差を拡大させたのか?
平和や友愛のイメージで捉えていたが、単純にTPPのヨーロッパ版ということ?
としたら、今回のイギリスの脱EUはどういうことになるのか。
ヨーロッパに対する疑問が膨らんでしまった。
カトリック、プロテスタント、そして世俗主義。フランスは地理的に、これらの要素が地層のように重なり合い、重なり具合によって地域性が生まれているらしい。さらに、人々の移動によってその地域性が解消されるかというとそうでもなく、移動先の土地の価値観に人々は染まっていくらしい。
このようにして形成されたあるパターンが、「シャルリ」の正体ということになる。
ドイツが移民を多く受け入れ、フランスが僅かであるということに対する説明も目から鱗だった。少子化の激しいドイツは、労働力として移民を受け入れていく必要があるが、フランスは割に出生率が良好なので、労働力としての移民を必要としていないということらしい。
『土佐堀川─広岡浅子の生涯』
負けたことのない人生て面白うないのやないか。勝ってばかりいたら、人の心がわからんようになる。神様がくれた試練や思うて、いまは我慢せなあかん 163
『翻訳英文法 新装版』安西徹雄
バベルプレス、1982
・英語の思考の流れをそのままに翻訳すること
・所有格構文の意味構造:E.A.ナイダ『翻訳─理論と実践』(研究社,1973)
(1)his sins < he sins : AがBをする
(2)his destruction < X destroys him
(3)his calling < He(God) calls X
(4)his glory < he is glorious
(5)your way < you (go on) the way
(6)my burden < I provide a burden
(7)my God < I worship God
(8)his father < he possesses a father and the father possesses him as a son
(9)his arm < he has an arm
(10)his house < he owns a house
A of B
(1)the will of God < God wills
(2)the foundation of the world < God creates the world
(3)the God of peace < God causes peace
(4)a man of confidence < the man has confidence
(5)a word of truth < the word is true
(6)Joan of Arc < Joan comes from Arc
(7)the land of Judea < the land is Judea
(8)depth of soil < the soil is deep
(9)servant of man < He serves man
(10)The Book of Mormon < Mormon wrote the Book
※「核文」「変形」
「核文」とは、文中の行為語は品詞は何であってもすべて動詞に還元し、事物語は名詞に、量や質を表わす抽象語は形容詞や副詞に還元して、文章の各構成要素間の意味上の関係を、もっとも単純、明確な形式に再構成した基本構文のこと。
ナイダによると、英語の「核文」は次の7パターン。
1. John ran quickly.
2. John hit Bill.
3. John gave Bill a ball.
4. John is in the house.
5. John is sick.
6. John is a boy.
7. John is my father.
メディアを憂う
自民党の宮崎謙介衆院議員(35)の不倫問題、堺市議会の小林由佳議員(37)の政務活動費問題・・・ニュースからワイドショーまでこれらの問題にシャカリキになっている。
海外発のネットニュースはアベノミクスの終焉を匂わせており、株価は大暴落、円高はどんどん進む。週刊金曜日は安倍首相と暴力団の関係を暴露する。
表のニュースと裏のニュース。
表のニュースは、自粛への圧力も含めて、何らかの権力によって操作されているとみるのが妥当ではないか。陰謀論は考え始めたらきりがないが、説明不可能な現実(確かめることのできる素材)を説明するために、素材と素材の因果関係の可能性を措定していくという作業は必要ではないか。
甘利のスキャンダルがテレビから一瞬にして掻き消えていったのも、不可解なことの一つである。
セミナー参加報告
【第3回 セミナー「学校からこぼれた子ども達」】
○内容
不登校の子どもたちと向き合う中で見えてきたもの~日本の社会・子どもの現実
と私たちの課題~
・不登校や発達障がい(凸凹)、低学力や貧困家庭の子ども達への支援活動
・その中で、外国にルーツを持つ子ども達の問題について
・20年前に立ち上げた自主夜間中学校、そこで支援した外国にルーツを持つ子
どもたち
○スピーカー 吹田子ども支援センター 代表 森本英之氏
○定員 20名
○主催
特定非営利活動法人 関西国際交流団体協議会
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スピーカーの森本先生の生い立ち──ひどい貧乏から出発したということ、自主夜間中学に関わられたり、退職後にNPOを立ち上げて不登校の子どもたちのお世話をされたり・・・
すごいエネルギッシュな方がいらっしゃるんだなぁ、と思いました。
しかし、NPOは赤字運営だとか。
貧困にある子どもたちが、1時間500円(?)の学習支援サービスに押しかけるため、不登校の子どもたちの支援に向けたい力が分散し、しかも採算が合わないということでした。けど、貧困の子どもたちは、自分たちが面倒を見ないと誰が見るんや・・・というジレンマも感じる、と。
そうなんですよね。すべての子どもたちに質の良い教育を──と心から思います。それは、その子たちの未来にとってだけでなく、私たちみんなの未来の問題なのだと。
けど、問題をずらしてしまったようで申し訳ないのですが、貧困の子どもたちの面倒は、学校が見ればいいのではないですか? どうして学校で見れないのでしょう?
貧困の子どもたちがNPOに大挙して来てしまうと採算が合わなくなる、行政は何の支援もしない、けど、学校には公的な予算がしっかりと(NPOと比べると、という意味ですが)下りているのではないんですか?
中学校の教員を勤めあげられ、校長先生までされたスピーカーの先生が、話しの流れで学校をまったく俎上に乗せなかったことがひどく意外な気がして、質問してしまいましたが、学校変革のビジョンはとうとうお聞きすることができませんでした。
親がもっと学校に関わってください、と、結局そういうことをおっしゃっていたのが、ひどく残念な気がしました。私が納得していないと、学校の内部の話も始め、構造的になかなか変革の方向へはいかないのだ、と。だから外部の力(親、地域)が必要なのだ、と。(ただし、「学校バッシング」ではなく、と何度もおっしゃってました。)
私がお聞きしたかったのは、そういうことではなかったのです。
どういう力で変わっていくか、ということではなくて、どのように変わっていけば、今学校からはみ出してしまっている子どもたちを学校へ包摂していくことができるのか、変化することで貧困の問題、不登校の問題が部分的にせよ解決する見通しができるのか、など、そういうビジョンがあるのかどうか知りたかったのです。
それは、私が、学校の未来についてのビジョンをうまく描くことができず、学校に対してあまりよいイメージを持つことができず、でも、それではいかんのじゃないか、もっと学校を中心とした変化のあり方を探っていくべきなんじゃないか、という思いが日頃からあったので、それについて考えるためのヒントが欲しかったのです。
教育バッシングをすると票が集まるから、そういう政治的な道具として教育バッシングがある、という捉え方でしたが、どうして教育バッシングをすると票が集まるんですか? 公的教育に対して不満を持っている人たちがわんさかいるからそうなるのではないですか?
教育現場が、教育バッシングにまず真摯に向き合わないことには、やはり学校はかなりの部分税金の無駄遣いになってしまうんでしょうね。「教育バッシングをすれば票が集まる」ということの意味をしっかり考えていただきたいです。
とりあえず、雑感メモでした。
物件
よし、決めた!
と思った最後に、郵便受けを見ると、微妙に同業者のラベルが・・・
しかも、このへんではまずまず名前の知れた教室だ。
幸か不幸かマンションの表には看板が出せないので、バッティングしてもそれほど問題がないっちゃぁないのだが、その点が悩ましい。
それは、子ども向け英語教室で、ネイティブを使ってアットホームな教室を展開している。伸びる子は伸びるし、伸びない子はまるで伸びない。伸びる子も、英語導入後のカリキュラムが用意されているかどうかは未知。
私の教室は、英語の部分は、多読メインで、ただ導入学習もやりますよ、ということ。あくまで、どんどん本を読んでいけるようになることを目指す。日本に居ながらにして、英語による情報を受け取るということができるようになることを目指すのだ。さらに、作文小論文教室も併設。また、個別指導か自習型かで塾事業も将来的に展開していきたいと思っている。
なので、ほんとに微妙なバッティングなのだが、先方にしたら気が悪いだろうなぁ。一筆、ご挨拶を入れておくかな。ごめんなさい。
あとは、フローリングなのに床が少しフワフワしていること、床の一部がカビたかな?という黒ずみが見られることなどが気になる。
立地的には申し分ない。
4階で、窓からの景色も、大したことはないが広々していて遠くに山が見えるのがいい。
採算とれるかどうかは、これからの大問題だが、やるしかない、か。
ここで。
ここで?
明日、決めよう。
教室にする物件
明日、物件を見に行ってくる。
駅近で、大型スーパーがすぐ近くにある。
住居用のマンションで、事務所などに使ってもよいということ。
5階建ての5階。(もしかして、エレベーターがない?まさか・・・?)
9帖ってどれくらいか。5人くらいで囲んで座れる机一つと、事務スペース兼個別指導ブースを確保できるか。
家賃・共益費で60000円、光熱水で10000円くらい? 月70000円はかかる。
月謝収入とほとんどトントンの状態がしばらく続くかもしれない。
初期費用は、机、いす、本棚。10万はかかるだろうな。
看板等を表に出せないのがちょっと痛い。
どうやって宣伝するか?
まぁ、しばらくはじっくりと構えるしかない。
助走期間から本走りへの切り替えどき。
さぁ、やるしかない。
あれもこれも・・・
あれもこれもと、触手に導かれるまま歩いていたら、いつの間にか抱えきれないほどの仕事を抱え込もうとしているのかもしれない。
メインの事業も、少しずつ<形>が現れつつある。これはとても嬉しい。この年になってこんなにワクワクできることがあるというのは、ほんとうに幸せだと思う。もちろん、このワクワクは危険と隣り合わせにあるのだけど。
独習塾併設は、まだ少し先の話だが、とりあえず、自分の教室を構えることにした。
貸事務所などの不動産事情も、まったく不慣れな世界だ。きっと、「またこんなやつが来た」てなもんだろう、不動産屋さんにとっては。けど、中には丁寧にいろいろ教えてくれる、というか説教垂れてくれる人もいて、それはそれで勉強になる。
いい物件にめぐりあう──ということ。とりわけ資金の乏しいものにとって、これは思いのほか重要な要素だ。そして、いい物件を見逃さない、という能力と度胸も必要なのだと思う。しかし、何がいい物件なのか?今しばらく緊張感が続きそうだ。
声をかけてくれた子ども対象のカルチャーセンターは、どんなだろう?どれくらい子どもを集めてくれるのだろう?
作文のグループレッスンの体験が積めるのはありがたい。8人くらいで、75分授業がいいかもしれない。時間固定なのもありがたい。(生徒の都合でキャンセル、振替になったり、時間調整する必要がないという意味^^)
作文いろいろコースと、小論文メインコースと、二つできたらいいかな。1日に連続で二つして、1万2千円もらえたらよしとするか。
4月から、コミュニティNPOはやめるとして、日本語講師は今まで通り週3? コミュニティNPOの代わりにカルチャーセンターな感じ?
地域:感情の経済学から
“脱地域”をひとまず意識するにあたって、これまでごまかし押さえつけてきた自分の感覚や感情をもういちど掘り起こしてみる。
まったくの“脱地域”というわけではもちろんなくて、地域のある部分とは少し疎遠になって、新たな境地を開いていきたいということだ。
前回書いたことを、感情の経済学という視点から少し書き足してみたい。
もちろん、私自身のコミュニケーション能力に非があるとか、結局私がみんなを見下していて、そのことを隠しきれずに不快に感じた人がいるのではないか、などという可能性もある。けど、振り返ってみても、自分がそれほどひどいコミュニケーション能力の持ち主だとも、周囲の人が不快に感じるほど傲慢だったとも決して思えないのだ。
私には、彼らができないことができる。しかも、それらはほんとうにささいなことで、自慢するにも値しないようなことである。
しかし、私が彼らにその能力をシェアすることで、彼らは私に「借り」ができたように感じていたかもしれない。そう思う必要はない、と、彼らは自分に言い聞かせていて、それに成功もしていたかもしれないが、どうしても澱のように沈殿していったものがあったかもしれない。
具体的に書くのも憚られるようなささいなことだが、それはパソコンの簡単な操作に関することだったり、ワードを使ってチラシを作ったりアレンジすることだったり、そんなどうでもいい能力のことである。
それが「借り」として澱のように沈殿していったとしたら、それは私の態度にあるというよりはむしろ、私が元大学教員だったりすることにたいする彼らの引け目に原因があるのではないかと思う。
だとすれば、私がしなければいけなかったのは、
「私があなたにこれを教えてあげたけど、(?)。私の方こそここで働かせていただいて、いろいろ支えていただいて、感謝しています」
というメッセージをもっともっと伝えないといけなかったなかな、ということ。(?)の部分も、何か必要な気がするのだが、そこにどのような要素を入れれば彼らが満足するのかは私の想像力ではわからない。
そして、その気持ちを表現するために、人一倍積極的に雑用を引き受けたり、ボランティアでいろんな活動に参加したりしないといけなかったのかな、ということ。
さびしがり屋の誉めてほしい人たち──と彼らのことを括ることもできるかもしれない。
そして、そんなことを言ったりしたり、できるだけがんばってきた自分の姿を振り返ることもできる。私はがんばった。でも、もういい。
ある人には確かにとてもお世話になったけど、それはそれとして、前へ進まなくては。
私がお世話になったという人も、私が地域の外へ働きに行くようになったら、地域内の低賃金退屈な仕事に私を引き留めようと一瞬躍起になったが、あきらめた。あきらめたら、さっさと出ていけ、という態度を少し出してきた。
男たちのエゴの世界──地域。
こうして女性も巻き込まれるわけだが、おそらく、男同士ではもっと熾烈な何かがあるのだろうなぁ、と想像する。3年間で、その詳細にたどり着けなかったのは残念ではあるけど。