学習と脳の「動き」との関係に意識的になったのは、何をおいても娘を観察したことに始まる。
もともと、頭は悪くはなく、記憶力や形認識力は多少優れていたと思う。しかし、「回転」は凡庸な感じだった。
それが、台湾へ行って、まったく中国語が分からないまま現地の小学校に放り込まれて(わたしが放り込んで)、中国語でさまざまな事柄をとにかく急速に暗記する必要に迫られたのである。
<エピソード1>
国語の教科書を3ページ暗記、とかいう宿題も出る。
意味の分からないまま、お経のように暗記する毎日。
泣きながら訴える。「2ページ目までは覚えられるけど、3ページ目が何度やっても覚えられない」「こんなに何時間かけても自分は覚えられないのに、台湾の子は、学校へ行ってから朝、30分で全部覚えてしまう」
それ以外にも、算数や理科、社会もある。すべて中国語で、内容を学習し、テストに答えられるようにならないといけない。
あのまま日本にいたら、中の上か上の下くらいの感じで、あまり苦労せずに学習をつづけていたかもしれない。もしかしたら少し頑張って、上の中くらいにはなっていたかもしれない。
しかし、台湾では、恐ろしいハンディを乗り越える必要に迫られたのだ。
あるとき娘は、脳に関する本を買ってくれと要求してきた。日本へ帰ったときに数冊購入し、まずそれを熟読していた。それから、娘の脳の開発が始まった──ようだ。
朝5時に起きて暗記し、また30分ほど寝てから、本格的に起きて学校へ行く。
そんなことをずっと続けていた。
そのほかに何をしたかはよくわからない。
<エピソード2>
日本人であるということから、授業中にいやな思いをしたりもしたようだ。
社会の時間に、日本統治時代の話になったときなど、戦後の中国教育を受けてきた教師は、娘の方を見ながら、日本統治の弊害などについて話したのだそうだ。
また、あるとき、割と仲良くしていた友人から、「釣魚島は私たちのものだからねっ」と言われて、その意味がわからず私に聞いてきたことがある。ネットで調べると、それは尖閣諸島のことで、ちょうど中国がどうのかこうとかで世間を騒がせていた時だった。
そんなことから、国際秩序や世界のことに興味をもち、というよりも、渇望し、一方で日本語にも渇望し、池上彰の「そうだったのか!」シリーズを読み漁った時期がある。
そのようにして娘は、大文字のポリティックスやミクロポリティックスに目覚めていったように思う。
自分をとりまくそういったポリティックスと自分が関連付けられれば、身の回りさまざまなことがらの「意味読解活動」が始まる。つまり、たえず脳を働かせながら、状況読解の活動が続けられるループができる。
いわゆるマージナルマン、とりわけユダヤ人が頭がいいのは、先天的というよりは環境的なものも大きいのではないかと私は思っている。
<閑話>
日本に帰る前、ほとんど勉強していない日本の中1、中2の学習内容をどうしようかと考えた。日本へ帰るといきなり中3、つまり受験生になる。
とりあえず、積み重ね式の教科である、数学と英語は中1と中2の内容を入れておかないとまずいだろうと思い、台湾の2月、春節の冬休み期間、1か月かけて問題集をやらせた。
私がつきっきりで見てやろうと思っていたのだが、なんかうまくいかず、途中で破たんした。もう勝手にしろ、と私は怒って、手を放したのだ。
しかし、驚いたことに、娘は自分だけでいつのまにか問題集をどんどんやっており、内容をインプットしていたのだ。
受験期は娘だけの帰国となり、私の両親に娘の受験期を支えてもらうことになる。
娘は塾をペースメーカーに、受験勉強をすることになった。
学校の定期テストは450点レベルをキープしていたが、何しろ中1と中2の内容がごっそり抜けているので、実力テストは点が取れない。社会や理科はとくになかなか追いつけない。
ここでもまたハンディキャップを乗り越える必要に迫られ、そして、結果、見事に乗り越えたのだった。ほんとうに見事に。
<エピソード3>
中国語がネイティブ並みに話せる日本の高校生。
しかし、高校の同じ学年にそんな子は、私が把握しているだけであと2人はいたようだ。
高校生活は楽しんでいたが、ちょっとしたことで感情を爆発させたり、わがままだったりで、凡庸な高校生だった。
わがままであるということは、世界が狭くなるということだ。世界が狭くなるということは、脳がそれだけ働かなくなるということなのだ。
そんなとき、ラッキーなことに、交換留学のお誘いがあり、娘は喜んでそれを受けた。行き先はフランス。
そこで、まったくの他人の家庭にホームステイし、相当苦労することになる。
ホームステイ先の問題もあるだろうが、娘自信の問題もあったと私は見ている。
そして、不思議なオーラをまとって娘はフランスから帰ってきた。
不思議なことに、フランスから帰ってきた子はみな同じようなオーラをまとっているのだ。
ここでもまた、脳の動きがちょっと変化したような気がする。
<総括>
このようなことから、人は、脳が動いているときと動いていないときとでは、学習能力がひどく違っているのではないか、ということを考えるようになった。
私は医学の知識はないので、この表現はほんとうに実感を無理やり言葉にしたにすぎないのだが、私のなかではこの説明でいろいろとつじつまが合うので、自分用にそのまま使っている。
この脳が「動いている」「動いていない」という尺度は、教室に来ている子どもたちに対しても使える、私にとってはとても便利なものだ。脳が停滞している子どもに対しては、まず脳を動かすよう働きかける。