地域とは

3年前に日本に帰ってきて、なるべく地域に関わってきて──あぁ、こんなとこかぁ、と悟った。それなりに興味深い世界ではあるが、つまらない。何がつまらないかというと、①男性中心、②意識が低い、てことか。
①は、行き場を失った男性たちがアイデンティティを求めてうろうろとたむろっている世界というイメージ。だから、地域活性化とかボランティアとか銘打っても、結局「認めて、誉めて、僕のやったこと!」というところに帰着してしまうのがつまらない。
みんながハッピーになってよかったねぇ、人の役に立ってよかったねぇ、というところになぜか帰着しないのだ。どうしても、「活躍した(はずの)僕」ってところに帰着する。
まぁ、会社世界、そんなのあたりまえじゃん!と、その世界に驚いている私に違和感を感じる人も多いかもしれないけど。
②は、①とも関連しているけど、こっちは市も絡んでくるイメージで、いろいろ町おこし的な活動を志していはいるものの、どうもしょぼいということ。高齢化してて頭が固くなってるってこと、予算がないこと、もしかすると本気でない人たちが関わってしまうことなどがあるかもしれない。

地域の外でも働くようになったら、地域での私のポジションに微妙な亀裂が入り始めたような気配。めんどくさい。

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クロ現打ち切りか

「出家詐欺」放送における捏造、打ち切りへの流れ、BPOの意見書。

やっと整合性のある「解」が見えてきた。もちろん、また新しい要素が加われば、この「解」も破棄することになるのかもしれないが。

なぜ「出家詐欺」放送は捏造されたのか?

NHK総合テレビ『クローズアップ現代』(2014年5月14日放送)『かんさい熱視線』(同年4月25日放送 関西ローカル)

2014年春がどのような政治状況だったのかは改めて調べ直すとして、マイナンバー制との関連があったのではないか? というのが今回の「解」である。

BPOが、番組捏造に対する批判の流れで、自民党、総務省への批判も行っていることがひとつの根拠である。表立っては関連付けられていないのかもしれないが(BPOが発表した原文を読む必要がある)、捏造批判の流れでそのような「意見」が出てくるというのはあまりにも不自然な印象を受けるのだ。

つまり、マイナンバー制度はぜひとも必要だ、という世論を作り上げるために、自民党がNHKに圧力をかけてできあがったのが、あれらの番組だった、という解釈である。権力がバックにいるからという慢心もあって、雑な捏造に結びついたのかもしれない。

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英語のグループレッスンへワンステップ

まずは二人から始めてみたいと思います。

マンツーマンで手取り足取りやっていたのですが、いずれは10人規模のクラスにするのが目標です。ただし、質は絶対に落とさない。

とはいえ、マンツーマンの状態から質を落とさずにどうすればグループ化できるのか? というのは、たいへんな課題のように思われました。

いろいろ考えていて思ったのは、「生徒の伸びる力を信頼する」ということ。

マンツーマンだと、転びかけたときにさっと手を差し伸べてあげたり、躓くたびにいっしょに石を取り除いてあげたり・・・ けど、もしかするとそんな過保護なこと、必要ないんじゃないか?

使う教材は絵本で、絵本そのものにも力がある。絵本の力、生徒の力。そういったものがうまく出会い、すてきな学びの場になるような、そういう黒子的なポジションに自分を置くべきじゃないか? と思うようになってきました。場や時間のアレンジ、そして、多くの人が躓く石があるのなら、そこにポイントを絞ったレクチャー。さらに、個別対応の場と時間をキチンと確保しておけば、むしろ生徒たちの主体性を刺激しながら、よい学びの場ができるのではないか?

イヤホンで音声を聞くというのが私自身あまり好きではないのだが、買ってきた時代遅れの?CDプレーヤーに教材CDを入れ、古ぼけた音声の英語を聞いてみた。

ふしぎと落ち着き、物語の世界に入って行ける──これは大きな発見だ。紙媒体の絵本と、イヤホンで聞くCDプレーヤーの朗読。

写真などでそういう教室風景を見てもピンとこなかったのだが、見るのとやってみるのとでは大違い。なるほど。こうして生徒が教室に来て、たとえ15分でも一人で英語の本に没頭する。この積み重ねは、少し大きな結果に結びつくような気がする。

生徒たちの満足度に注意を払うことと、「躓きの石」をコツコツと採集すること。当分の課題ができました。

来春、3~5人のクラスに発展させることができたらいいな。自分で読書する時間とレクチャーの時間とをキッチリと枠づくりして。

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英語のグループレッスンに向けて

いうても大したことないのだが、夏休み前後でパタパタと生徒さんが入ってきてくれた。ほとんどマンツーマンでやっていたので、数人でも入ってきたら時間配分でてんやわんやになってしまう。

英語のグループレッスンは来年4月からの課題にしていたのだが、英語を今月からでもグループ化する必要がでてきてしまった。高校生クラス。

カリキュラムをしっかり組んで、学習システムを設計しないといけない。

高校生活の貴重な時間を私の教室に来てくれる生徒さんたち。月3回でもここへきて、英語、なんかできるようになったやん!と実感してくれるようになったら嬉しい。絶対に伸ばすカリキュラム。到達目標も定めないといけない。

受験はもちろん射程に入れるのだが、多読教室であるので、目標はやはり本が読めるようになること。このために、多読図書に出てくる言い回しなどの文法的フォローも必要になってくるだろう。子どもがマザー言語を学ぶように、パロールを積み重ねておのずとラングに到達する、という道筋は、時間数からしても描きにくい。文法的フォローはどう考えても必要だ。

この文法の部分は、学校英語との接続においても重要になる。学校英語との連続性を確保できれば、学校英語がもっと生き生きとしたものになるだろうし、さまざまな「気づき」を促していくこともできるようになるんじゃないかな。

文法的フォローをするときに、アウトプットにも使える形で練習できたらいいなと考えている。使役makeの使い方や、「やっちゃった!」というときの完了表現、願望を表す表現など、自分でも使えるようになったらいいなと思う。

何かテキストを使うのか、それともORTなどのテキストを見ながら自分でプリント作るか。何かいいテキスト、ないかなぁ。

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議論の根付かない日本

アレルギー、ヒステリック・・・

うんざりしてくる。

政権与党のやり方も確かに不快だし、非常に危ない道を進もうとしていると危惧もする。言葉の空虚さや細かな(細かいわけでもないのだが)価値観を共有できない部分もある。

しかし、与党の提案に対して闇雲に反対するあの人たちはいったい何? みんながしてるから自分もデモに行ってみる? 奇しくもインタビューされてた若い女の子がそのように言ってた。「こんなにたくさんの人が反対しているのだからやはりよくない法案だ」というようなことも。

それこそ、ファシズムへとつながっていくメンタリティである。

どんな日本にしたいのか? 平和が尊いのなら、どうすればその平和を守って行けるのか? 世界情勢は今どうなっているのか? その中で日本はどうあるべきだと思うのか?

日本はもはやいらない、という考え──一部にはどう考えてもそのような価値観に基づいているとしか思えない主張もある。更に不思議なことは、そのようなアンチ・国家の態度でいながら、中国・韓国に、「日本」として謝罪すべきだ、という。更に、どうやら謝罪すべき対象は中国・韓国だけであるというのも妙。あとのアジア諸国については、日本に謝罪を求めないのがおかしいと考えているようなのだ。そのように、他国の方向性を「おかしい」と決めつけることこそが帝国主義的発想の残滓であるということも自覚せずに──も含めて、議論する必要があるんじゃないか。

謝罪の要求が、人々の痛みから来ているというよりは、政治的駆け引きから発生しているというのは調べて分析すれば明らかになるだろう。ならば、いろんな条約や法律に照らして、たんたんと処理するしかないのではないか。

アメリカ、EU、中国、アフリカなどの地政学的関係などについても議論しながら合意を築いていかなくてはならない。

ごちゃごちゃ雑感を書いたが、違憲だ合憲だとか、もちろんそれも大切だが、どんな世界に私たちは住みたいのか?という合意を形成する熱い努力こそが、喫緊に求められていると思う。

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マンションのみんながお掃除してるけど・・・

日本に来て2年ちょっとの高校1年生、中国人女の子。ずっとお父さんと暮らしていたのだが、今年の5月からお母さんも中国からやってきて同居。たぶん2LDKのマンションを買って、そこに暮らしている。

ある日曜日、うちに勉強しに来たとき、うちの近くの団地でおばあちゃんたちがみんなで草抜きや掃除をしていたと、報告してくれた。「日本では、決まった日にみんなでああやって掃除するのよ」とか言うと、「あ、うちのマンションでも掃除してるね」って。「それで、あなたのお父さんとかお母さんは参加されてるの?」「いいや、してない。あれはしたい人だけするの?」って。「いやいや、マンションでどんな決まりがあるかわからないけど、一度確かめてみたら?したい人だけするなんてこと、日本ではあまりないから・・・」と笑った。

大丈夫かなぁ。煙草を吸う場所や洗濯機を回す時間、ゴミ出しのマナーなんか、大丈夫かなぁ。

きちんとしてくれないと、暮らしにくくなっちゃうだろうからね。

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人間関係=成績

日本に来て2年ちょっと経った中国人の高1女の子。夏休みの宿題で課題図書を読んで感想などまとめるという作業をお手伝いしている。選んだ本は、土井 隆義 『友だち地獄―「空気を読む」世代のサバイバル』ちくま新書(2008)。

人に関わっていく「優しさ」から、人と距離を置く「優しさ」へ、という枠組みを押さえたうえで、いろいろ質問してみる。「学校ではどうかな?」「じゃぁ、中国の学校はどうだった?」などなど・・・

そしたら、

「中国の学校で、人間関係、って言ったら、へ?って言われる。何、それ?って。」と。

「え!?どういうこと?」

と、へ?となったのは私の方であったのだが^^、彼女は説明してくれた。

「中国の学校では、人間関係=成績ってこと」

へ?! ますます謎めいたことを言ってくれる。

説明されてもいまいちピンとこないのだが・・・  つまり、成績がすべてを支配しているような雰囲気のようなのだ。成績のいい子は成績の悪いことは交わらない。成績のいい子同士は仲良くなったりつるんだり、逆にケンカしたり嫉妬に駆られたり。

彼女は成績はトップクラスだったようで、クラストップの女の子とは今でも親友なのだとか。けど、当時仲良くしていた体育委員長の女の子は、中2でだんだん成績が落ちてきて、クラストップの女の子に対する嫉妬に駆られ、彼女にノートを投げつけたり後ろからかなりの力で髪の毛をひっぱたりしたらしい。

「じゃぁ、成績の下の方の子は、どんな人間関係なのかな? トップクラスにとって成績がすべてというのはわかるけど、下の方はそうではないんじゃない?」

「でも、私は下の方の子のことはわからない(笑)」

なるほど。

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初心者への英語導入

英語は作文と違って、生徒のレベルにきめ細かく合わせていかなくてはならない。

さらに、「初心者」と一口に言っても、小学校低学年以下に対する導入と高学年に対する導入ではまた違ってくるような気がしている。

高学年では、あまり遊びの要素は入れずに、お勉強モードで入って行けるかな?と考えている。

フォニックスから入って、自分で簡単なテキストが読めるようになったら、たとえ意味がはっきりわからなくても楽しいだろうな、と思う。けど、アルファベットの名前→フォニックス→…とそればかりでは、やはり退屈してしまうんじゃないか?

ということで、高学年初心者に対しては、1時間のうち、アルファベット・フォニックス練習30分、多読テキストを使った学習30分で最初の数か月はやっていこうと思っている。多読テキストは、当面はORTを使用。Stage 1で、登場人物の名前や簡単な語彙・表現に慣れていく。

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模試の質

高3生の娘が河合塾の模試を受けた。この激戦の時代、予備校もますますレベルアップして・・・と思いきや、国語の試験の質の悪さにびっくり。

センター試験対策の模試なのだが、答え合わせをしながら娘がぶーぶー言うので、問題を覗いてみた。

第1問目の評論文の設問。どうしてこの課題文を引っぱってきたかな? という軽い疑問はおいておいて、いちおう、文章の論理的流れを問う設問になっているように見受けられた。

ただ、その論理展開に関して、5択か6択で正しいものを選ばせるのだが、その選択肢を読んでると頭が混乱してくる。意味がわからない・・・私はバカなのか!? けど、消去法で考えると一つしか残らなかった。その残ったものも、意味がよくわからない一文が組み込まれているのだが、それしか答えは無いように思われた。娘も同意見。

しかし、答えは違った。

思うに、私らがバカなのかもしれない。予備校の出している「解説」を読んでもなお、というか、ますます理解しがたいのだが、もしちゃんとした人が説明してくれれば、「は!なるほど!そう考えますか!」ということもあるかもしれない。

しかし、今の私の思考の段階で思うのは、出題者は文章の論理展開をさほど理解せずに、この設問を考えたのではないかということ。理解する能力がないのか、あるいは多忙でじっくりと問題を作ることができなかったのか。歴史観についての評論文だったのだが、出題者は歴史観や歴史認識について基礎的な教養さえなかったのかもしれない。

解答は、問題用紙に印刷された文章の中から論理的に導き出されるものでなくてはならない。(小説の問題については、この点も守られていないという娘の報告だった)

さらに、設問の選択肢を作るためには、概念の置き換えや誤った読みをした場合の理解など、論理展開や語彙の意味への正確な理解が求められることは言うまでもない。私が今回混乱したのは、出題者がこの部分についてあまり理解していないのではないか、ということなのだ。

駿台の国語でも、受けた学生たちの反応は同じようなものらしく、おそらく出題レベルも同じようなものなのかもしれない。そういった要素も加味しつつ、受験生たちは、自分の能力が偏差値的にどのレベルなのか、ということを判断していかねばならない。

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ビジネスモデルを作ること

英語教室や塾。

玉石混交。目的や特徴もさまざま。私が対応できるのは、とりあえずは中学レベルまで。今の私の教室は「玉」の部類だ。それはほとんどマンツーマンでやってるから。これが、たとえ少人数制であっても、集団教育になった時にも「玉」であれるのかどうか、というところが問題だ。さらに発展していけば、講師をやとってなお「玉」であれるのか、ということになる。

「玉」であり続けながら、ビジネスとしても成り立つ──そのようなビジネスモデルを作らねばならない。そして、そのモデルを作ったときに、しかるべき投資ができるだけの財力も蓄えねばならない。忙しすぎるとビジネスモデルも作れないし、だからといってこの道だけ追ってると資金繰りがまるでつかない。そういった状況で、どのようにバランスをとりながら道を切り拓いていくのか?

青臭いかもしれないが、何か理、想というか夢というか。そういったものがないと、やる意味がないというか。

世の中には、自分の地位やアイデンティティのためだけにいろいろやれる人がいるのだなぁというのを改めて認識しつつ、自分のアイデンティティや地位は、人の役に立つ、というか、何かしらの現実が良い方向に転換するように、そういう働きかけのできるポジションに自分をおきたい、という、そういう欲望が抜き差しならぬ形で自分に巣食ってるなと感じるのだ。

自分の地位やアイデンティティのためだけに生きている人は、それでもそれなりに如才ないコミュニケーション力を持っていたりはするのだけど、それはやはり表面的なところで、それはとてもつまらない。プライバティゼイション──研究者の卵時代に誰かが何かの研究会でこの概念にこだわっていたが、今なんとなくこの概念が耳元をよぎっていくときがある。

作文力に関しては、うちに来てくれれば確実に上達する。あとは、その上達ぶりをどうすれば<可視化>できるのか、ということだ。しかも、わかりやすく。さらに、なんとなく書けるようになった、ということではなく、それはどこまでも進化し続けるものなのだ、ということ。

1か月3回でも作文をみっちりと書けば、数か月の間に書く力は確実に上達する。ある程度かけるようになればそのあとの進歩は見えにくくなるかもしれない。現在の学校で求められるレベルには、それだけでも十分応えられるかもしれない。けれど、教養を積み重ねて行こうと思えば、さらに地道な努力を続けていかなくてはならない。

そのへんだ。

ある程度書けるようになれば、みんなやめていく? まだぜんぜん足りないのに。

そして、英語。こちらはどうなのか。ただ、どのへんに目標を定めたらいいのかよくわからないが、少なくとも、高校入試の長文問題が他の生徒と比べてずいぶん楽に解ける!と感じてもらう程度には上達してほしいと思う。何か英作文を書けと課題を与えられたときにも、こう表現すれば伝わるかな、という感じをもってくれるようになったら、と思う。決して直訳ではなく。

 

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