このところ、どうにも元気が出ない。いろいろ元気が出なくなる理由はある。ときどき、やる気になるが、すぐにしょぼん・・・
いろいろ理由はあるので、元気が出なくて当然だろう──と思っていたのだが、どうもそればかりでないような気がふとした。<娘欠乏症>?
娘がフランスへ行って7カ月とちょっと。それで、しょぼんとしているのかも。しょぼんとすると、運気も去って行き・・・
あかんやん! 自立せな。あー、踏ん張りどころ!!!
このところ、どうにも元気が出ない。いろいろ元気が出なくなる理由はある。ときどき、やる気になるが、すぐにしょぼん・・・
いろいろ理由はあるので、元気が出なくて当然だろう──と思っていたのだが、どうもそればかりでないような気がふとした。<娘欠乏症>?
娘がフランスへ行って7カ月とちょっと。それで、しょぼんとしているのかも。しょぼんとすると、運気も去って行き・・・
あかんやん! 自立せな。あー、踏ん張りどころ!!!
娘を育てる中で、また教室を運営する中で、子どもの学力を知って驚くことが多い。この子がなんで!? と。
昔と比べるのもなんだけど、それに昔の記憶や世界認識がどうだったのかも今となってはよくわからない部分が大きいのだが、子どもの教育環境は激しく悪化している、というのがやはり実感である。
理由はいろいろ考えられる。
①塾の隆盛──これにもいくつかの下位理由がある。まず、塾で先回りして学習してしまうため、学校の授業が退屈で、授業崩壊現象が起こる、というもの。(塾で学習して授業を聞かない子どもは、しかしあまり伸びない可能性が大きい、ということも言えるだろう。塾の内容、学校の授業内容にもよりけりだが、基本的に塾は問題を解くためのパターン学習、学校はやはり考えさせようとする授業が中心だと推測されるからだ。)また、( )内で述べたことと関連するが、塾ではあくまで試験問題に答えるためのパターン学習が中心であるということ。試験に出る知識を浅いまま詰め込み、解法のパターンを頭に叩き込んでいくということ。当然、<考える力>は著しく低下する。
②教員の教育能力低下──まず、教育能力そのものが低下したと仮定することができる。しかし、これについては、私が子どものころと娘の時代とを比較しても、感覚的にさえどうだとは判断しがたい。また、客観的に能力を測定する指標も思いつかない。次に、教員の労働環境の問題で、労働環境が悪化したために教育能力が低下しているという仮定もできるだろう。これも判断するだけの情報がないのだが、昔の先生は、子どもたちに毎日日記を書かせて、それを毎日読んでコメントを返す時間をどのように捻出していたのだろう、とときどき思う。
③子どもをとりまく環境の変化──ゲーム等の、あらかじめ人間が設定したパターン内での遊びが増えたこと。一方で、自然の中で試行錯誤するという経験が減ったこと。また、治安が悪くなって、子どもたちだけで冒険したりということがしにくくなったことなど。
などなど、大きなことを考えると・・・作文教えたり、英語を教えたりして、何らかの効果が見られたとして、このような大きな流れの中でそれがなんぼのもんや、という思いがしないでもない。
しかし、子どもたちの感性や考える力と向き合いながら、地域に寄り添っていくための、第一歩にはなると思う。何かを根本から変えなくてはいけない。おせっかいかもしれないが、パターン学習の中に閉じ込められて魂をすり減らしている子どもたちを見ていると、そう思うのだ。
重症です。が、親は気づいていません。
母親の思考パターンの脆弱な部分が凝縮されて子どもの思考パターンを形作ってる──このように感じるケースがしばしば見受けられます。
今回は、「<公式>病」と名付けられるかもしれません。国語にしろ数学にしろ、何かしら<公式>という装置に問題を放り込めば、チン!と答えが出てくるようなイメージでしょうか。
本もよく読み、英語もできるしっかりした母親。自らも向上心を持ち学び続ける女性である。
中学生の娘は、初めて私のところに来たころは、目がうつろで、何を聞いても反応がなく、洟も垂れっぱなしで、話しかけてもちゃんとコミュニケーションが成立しているのかさえ危ぶまれる感じ。
課題には、時間をかけて真面目に取り組む。しかし、内容を把握したり、へぇ、と思って取り組むという位相は見られない。
ファンタジー系の文章を書かせれば、割と表現豊かに書いてくる。絵本や児童書を、母親と一緒にたくさん読んできたんだろうと窺える。
課題には真面目に取り組む一方で、課題の指示を勘違いして、そのまま書くこともしばしば。やはりコミュニケーションがあまりうまく成立していないよう。
最近は、私にも慣れてきてくれたのか、はたまた脳が少し活性化してきたのか、単に成長したのか、表情も出てきて、反応もややよくなってきた。
もともと作文の教室に来てくれてたのだが、数学の成績がガタ落ちしてしまったことから、短期個人レッスンに切り替えることにして、親子面接を行う。どうしてこのような脳の働きになってしまったのか?というのを探らねば、なかなか解決策も出てこない。
いろいろ話す中で、これかな?と思う節があった。
「先生、田の字表ってご存知ですか?」と。私は知らなかったので、簡単に説明してくれた。それで、その表をマスターした娘は、何でもかんでもその表で解くようになったのだが、その表で解ききれない問題に突き当たってしまった・・・
これが伏線。
そして、数学を実際に教え始めたとき、簡単な文章題で、速さと時間と道のりの関係がでてきた。x や y を使って関係を式で表しなさいという問題。そのとき、あまりはっきりものを言わない彼女がはっきりと「これの公式は何ですか?」と聞いてきたのだ。
え? こんな簡単なことに公式? こんな簡単な問題、ちょっと考えればおのずとわかるじゃん!と私は驚いたのです。
で、あー、これかな、と思ったのです。パターン学習にも程がある、と言いますか、塾などで徹底されるパターン学習は、もちっと異なるレベルでのパターン習得で、こんなにも単純なパターンで学習をこなしていこうとする姿勢に驚かされました。
まだよくわからない部分がありますが、彼女が自分で考えようとすると、目の前に公式のカードを並べて、「さぁ、どれを使うの? それじゃないでしょ!」と迫られて萎縮してしまう──こんなイメージでしょうか。
必要な公式、定理はあるでしょう。けど、田の字表が小学生・中学生にとって必要なものだとはどうしても思えません。ある程度自力で解けるようになってから、情報をこう整理すると解きやすいね! というアプローチならいいと思うんです。
また、必要な公式などは、それをうまく使って問題を解く、ということが求められるわけで、やはりそこからは頭をどうしても使わないといけません。(どのように頭を使うのか、というところに、ある程度のパターンができてきます。)
迎えに来た母親に、「今日はちょっと頭を使いましたよ。まずは公式などに頼らずに、求められてる答えまで何とか自力で辿り着こうとする意気込みが必要ですね」と告げると、期待外れのコメントだったのか、少しキョトンとされたようでした。
思考パターンを変えるというのは大変なことです。親がそれまで彼女の中に凝縮し続けてきたものを、解体していくことですから・・・
YL(読みやすさレベル)0.3の簡単な絵本・・・なのだが、簡単でない。絵本と言うのは、言語的にはかなりやっかいだ。日本語を台湾で教えていたときも、絵本は使いたいけど使いづらい教材だった。
そして、これ。
一生懸命に読むのだが、読み切らん。掛け言葉とか含蓄とか、もっと何かあるのだと思う。その<もっと何か>がキッチリとわかれば、非常に面白い教材になると思う。もったいない、と思いつつ、やはりわからないものは一人で考えていてもわからない。調べながら考えていても、なかなかわからない。
これが、4月から中二になる新しい生徒さんの、本日のメイン教材。
The Bees’ Knees : まず、タイトルのこのアポストロフィの使い方を復習。
knees: 絵を見ながら、意味を確認
ask: これ、知らなかったですね。意味を確認。
Those bees like to fly in threes.: 動詞の名詞化(不定詞)についてサラッと説明し、in threes について考えてもらい、意味を確認。
You can see-six legs times three. Six times three makes eighteen knees!: このtimesの意味を推測してもらい、意味を確認。絵を見ながらだと、推測もしやすいですね!
a lot of: 意味を確認。
We never knock our knees! Let us show you!: neverの意味を確認。let us の使い方も確認。let はよく出てくるので、すぐに慣れて来るでしょう。
Look out, bees. : 簡単な単語から成る表現ですが、意外に意味は知られていません。
FREEZE! :凍りつく→止まる を解説。以前、この言葉がわからずにアメリカで撃たれてしまった日本人の男の子がいました。その話をしようかと思いましたが、時間の都合でやめました。
The bees’ knees knock… : knees knock は、膝ががくがくするとかいう意味もあるようです。でも、ここでは、互いの膝をコツコツとぶつけ合うみたいな意味かな? それとも、もう少し何かしゃれっ気というか含蓄があるのかな?
… and make a knot! : knot も、絵を見て理解。
簡単ですが、CDの音声は割とナチュラルなスピードで、オーバーリーディングではついていくのにやっとでした。何度か繰り返すと、少しずつスピードにも慣れてきました。
意味を確認(日本語で理解)してから何度か読んでもらい、どんどん覚えていってもらいます。
■『イスラム戦争─中東崩壊と欧米の敗北』内藤正典
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中東情勢とイスラムについてとてもわかりやすかった。とりあえず何が起こってるの?ということを知りたい人には、格好の入門書。どうして中東が現在このような複雑な状況に置かれているのか、どのように複雑なのかについての、歴史的ないきさつについても簡明に記されている。今後、中東問題に対して日本はどうあればよいのかということについては、トルコに学ぶことを強く推奨。
■『イスラム国の野望』高橋和夫
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イスラム国とは何なのか、について、非常にわかりやすく書いてくれている。そもそもイスラム教とはどういう宗教なのかについても、わかりやすい。やはり、トルコは独自路線をうまく歩んでいると評価。気楽に読んで、イスラム世界を身近に感じることのできる本。
■『イスラーム国の衝撃』池内恵
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固有名詞が多く、初心者には読みにくかった。
大阪府立高校入試の前期小論文の課題文が、本書から出たので読んでみました。
課題文もわかりにくかったですが、本書もわかりにくいです。挫折しました。私に文化的素養がないからわかりにくいと感じたのか、歴史的な事象や万葉集の話などを自由に行き来するスタイルが著者の趣味の世界であるように感じるからとっつきが悪いのかわかりませんが・・・
前期の課題の方向性として、レイチェル・カーソンの『沈黙の春』は気になっていました。ただ、この本からは直接切り出せるようなざっくりした記述が見つからず、また内容が(今なお無視できない内容であるとはいえ)やや古い感じがします。いずれにせよ、「科学の発展」─「環境」─「そこに生きる私」という図式はこれからは外せないですね。入試のためだけでなく、一度はしっかり考えておきたい重要なテーマだと思います。
「環境」の部分にはいろんな要素が入ると思います。医療環境も大きいですね。尊厳死や胎児スクリーニングの問題など。また、DNA解析の技術によって「家族」にまつわる法律も変わってくるかもしれません。「離婚後300日問題」なども部分的に解決されるかもしれないですよね。
アインシュタインなどは、「科学の発展」─「環境」─「その変化を生みだした私」となるのかもしれません。その「私」の部分に「人類」を入れれば、これはやはり万人が当事者として取り組むべき問題になりますね。
![]() 桜がなくなる日 |
<読みながらメモ>
ちょっと違和感のある文章ですんなりと理解できない。
まず、「論理」という言葉の使い方が、たぶん私とズレているのだろう。水島は、数学を「論理的」なモデルとして措定している。しかし、私は美学の分野での論述にみられるような、推論に推論を重ねたようなものにも「論理」はあると思っている。したがって、数学のように答えが一つに絞ることができないから国語は論理的でない、と言い切ってしまうことに違和感を感じるのだ。論理は何も、答えを一つに導くための思考ではないはず。
また、必要のない(あるいは的を射ない)例え話が多く、それも本書を読みづらくしている。
「本物の国語力の最も重要なポイントは、論理で表されない「解答者の経験や個人の資質に基づく想像や考えの部分」111
大学入試の国語は、「語彙力、短い時間で読める読字力、常識的な論理力」があれば解けるから、「訓練すればけっこうとけるように」なる。だから、大学入試に限っては「国語は論理で解ける」と言うこともできる。111
「国語に必要なのは、経験です」112
学習方法として、「音読」、次に「暗唱・暗記」を挙げているのは納得できる。さらに「要約」、「書写」。
<コメント>
「国語」という謎めいた教科にオーソドックスに立ち向かっている著者の態度に敬意を表します。謎めいているものを謎めいたまま置いておきながら、実際問題として「国語力」をつけるためには、「音読」に始まる一連の基礎的な作業が役に立つということです。これは私も実際に教える中で実感できることです。(私の教室は作文教室なので、「要約」の練習は気になっているものの今のところ採り入れてません。)
ただ、著者の「国語力」というのもいまいちよくわからず、その力の測定のためには結局のところ、著者の批判する「長文切抜き問題」によって構成された各種模擬テストなどによる偏差値に拠るしかないのかな?というのも、疑問です。疑問というより、残念な感じです。
上にメモしましたが、「国語に必要なのは、経験です」とあります。これは、「文脈を読む能力」と置き換えることができるかもしれません。文脈を読むためには、文化的な環境や理解を共有していることが前提になります。たとえば、「吐いた息が白くなった」と言った場合、そのような寒さを経験したことのない人には意味がわからないかもしれないですよね。ある地域においては、ほとんどすべての人が理解できないかもしれません。
「家族」にまつわる経験・環境も大きいですね。児童養護施設で育った子どもは、果たして家族の感情の機微を描いたような作品を理解できるでしょうか? 理解できたとしても、その理解は、そこそこ平和な「家族」で育った子どもと同じ理解なのでしょうか?
と、こんなことを考えていると、「経験」に基礎を置く「国語」、つまり、文化共有に基づく「国語」の存在意義のようなことを考えてしまいます。
あるテキストに文化的な背景がある、というのは、これはどうしようもないことです。そして、その文化的背景がわからないと、テキストの意味の解読も深みが出てこないかもしれないです。このように、「テキスト─文化的背景」という枠組みのもと、教材化するのは問題ないと思うのですが、その「文化的背景」の部分を、授業を受ける人やテストを受ける人がみなそれを共有していると前提するのはどうなのか、ということです。これはなかなか難しいもんだいです。
著者は、大学入試の国語については次のように述べています。「難関大学の入試国語は、語彙力、短い時間で読める読字力、常識的な論理力、があれば解けます。……そういう意味で、大学入試に限っては「国語は論理で解ける」と言っても、あながち間違いではないかもしれません。しかし……本物の国語力の最も重要なポイントは、論理で表されない「解答者の経験や個人の資質に基づく想像や考えの部分」です」111
その上で、「大学入試のような特殊な国語を除いては、正答は、大人による最大公約数的な答えです。まずは、しっかりと読めること、読めて内容がつかめること。これは回答者の資質ですね。読んで理解する、ここまでは努力で向上することができます。そして、国語に必要なのは、経験です。自分が悲しんだ経験のない人には、人の悲しみは理解できません。さらに、自分自身の資質や経験から想像されること、考えられること、これらを他人に伝えられるように記述すること。これらが国語で点数を取るために必要な力だといえます。」111-112
「正答は、大人による最大公約数的な答え」と言ってしまうと、これはもう、マジョリティの世界観を理解できるかどうか、ということになってしまうわけですよね。「悲しみ」にしても、失恋の悲しみと震災で暮らしを根こそぎにされた人たちの悲しみとを同じ悲しみとすることには無理があるわけです。
そういったことを、自分自身の経験に基づいて、さまざまに解釈する、というのはいいと思います。これは、文学や美学の領域でなされていることではないでしょうか。つまり、解釈はさまざまであり、どうしてそのように解釈したのかを理論だって説明するということ──これはいいと思うのです。間違っても、マジョリティの解釈だけを学習する場にすべきではない、と私は思うわけです。
とすれば、著者が述べているように、「自分自身の資質や経験」を基にした想像力が果たして「点数をとるために必要な力」と言えるのかどうか? 著者の説明によれば、そのような経験がマジョリティと共有されている場合のみ点数に結びつくことになってしまうからです。たとえ現状がそうであれ、それを力強く肯定する著者の主張には違和感を感じます。
まぁ、自分の解釈を理論だって説明できるということは、それを客観視できているということであり、つまりは違う立場もあるということを措定しているわけだから、マジョリティならこう考えるだろうと推論する力も十分ある、したがってテストで点数をとれる、と言うことにはなると思うのですが・・・
まとめましょう。
筆者の言う「ほんとうの国語力」なるものは、マジョリティの経験に裏打ちされたものであり、マイノリティを排除しようとする権力作用を有するものである。だから、私はそこを目指すことはしません。(解釈の多様性をこそ、私はめざしています。)
ただ、子どもたちを目の前にしたもっと実際的な場面において、「音読」から始まる一連の基礎的な作業を重視するということ、これはもっと強調すべきだと改めて思いました。教室を運営している立場からすると、そんな当たり前のことをやらせて、親や生徒は納得するのだろうか?という不安に常につきまとわれてしまうからです。その部分で、私は本書から大きな力をもらいました。
![]() 「受験国語」害悪論 |
春だからなのか・・・
先日から突然気持ちがザワザワし始めて、消えない。
自分の教室、このままだと、常に数人は来てくれているが、それ以上にはならないという、そういう状態をキープしそうだ。やはり、ある一定数以上の生徒さんが集まらないと、口コミなどで集まるという循環にはならないようなのだ。
つまり、だ。
生徒が集まればそれにつれて徐々に形態を改良していけばよい、という戦略は難しいということ。
つまり・・・
受け入れ態勢をある程度しっかりと整えておいて、がっつりと初期宣伝をして、がんばって一定数の生徒さんを1年間くらいの期間で確保する必要があるということ。
地域で存在を知ってもらい、信用もしてもらうという、そんなふうにならないといけないということ。
つまり、を繰り替えすが、つまり、
初期投資が必要だということなのだ。
いくら?
事業の損得だけを考えて、3年計画くらいで、300万円くらいは見ておかないといけないかな。けど、その間も生活をしていかなくてはならないことを考えると、かなりシビアだ。娘は今年大学受験生・・・
事業計画をもう少ししっかりと考えてみよう。まずは自分自身を説得すること。時間はあまりない。この1か月が勝負か?
2015年度の新中1生が大学入試を受ける年から、センター試験が廃止され、代わりに「大学入学希望者学力評価テスト(仮称)」が実施されることになる。
合教科型の試験、ということで、日本においてはまったく未経験の領域へと進もうとしている。混乱が予想される。予想されて余りある。
「これまでと異なる時代に生きる学生には、答えのない問題に答えを見いだす力が必要だ」「グローバル人材の育成が課題とされる中、日本の教育は十分に対応できていないとの強い危機感がある」という認識に基づくもののようだ。
「個別試験の学力検査は必要」という声に妥協して、各大学は「論述形式の学力評価を課すこともあってよい」ということになるかもしれない。妥協して、ようやく「論述」ですと。
英語に関しては、「読む・聞く・話す・書く」の4技能を評価するとか。
この流れにいち早く乗った大学は、前倒し式に従来のAO式の入試に切り替えていくらしい。
コミュニケーションのできる英語力、答えのない問題について考える論述力──がんばらなくてはなりませんな。
NIKKEI150114